第2回 才能か環境か?

 

俺たちは実は強いんじゃないか?と言う盛大な勘違いをして、那須先生も(恐らく)面白がって中学でも続けたらいいとおっしゃっていただきました。

それを真に受けて中学校でもバドミントンをやろうとしたのですが、そこにはものすごく高い障壁がありました。

 

それは、進学する中学校に剣道部とバレー部しかないことです。そりゃそうですよね。全校生徒50人の中学校(ちなみに卒業して二年したら廃校になりました)でバドミントンというものをやったことがない人の方が多かったのですが、そこにまた幸運が重なりました。当時の奥山校長はとても理解がある人で、「バドミントンやったらいいじゃん」と言って中体連やら教育委員会やらに根回しをしてくれて、無事中学校でもバドミントンができることになりました。

 

しかし蓋を開けてみると僕とりょうすけくんしか「バドミントン続ける!」と言わず、結局部員2名のバドミントン部が誕生しました。

 

そこからが茨の道で、元々実力がないのに勘違いして始めてますので行く大会行く大会惨敗してくるわけです。これはいかんと思いますが部員は2人しかいないし、練習も週に2回隣の市の女子中学生の部活に混ぜてもらうだけなので強くなるわけがありません。ほとんど帰宅部のような生活をしていましたが、またそこでラッキーが起こります。

 

行っていた隣の市の女子中学生の部活に、一人だけ1つ学年が下の男の子がいてその子は小学生時代から県チャンピョオンで素晴らしい実力がある選手でした。男三人が女子の中で練習していましたので仲良くならないわけがありません。

 

彼はゆうきくんと行ってバドミントンに対してすごく真摯で情熱があり、彼もこの環境では強くなれないと思っていたらしく、ある日仙台の名指導者の門を叩くことになります。その指導者は何人も全国で活躍させているバドミントン回で有名な人らしく、課せられる条件も365日毎日練習に通うという条件なら面倒を見てやる。その代わりかならず東北大会で優勝させる。とおっしゃっていたそうです。

 

そんなことも知らず、いつものようにゆうきくんと練習中おしゃべりしていると「俺、来週から仙台で練習することになったんだ。一緒にいかない?」と誘われました。

 

仙台といえば山の中に住んでいる私からすれば大都会で、都会に対する憧れはものすごいものがあったので絶対行きたい!となったのです。バドミントンに真摯なゆうきくんに対してとても不純な動機を親に隠し、俺もバドミントンが強くなりたいんだ!と説得し、毎日仙台に通うことになりました。

 

片道2時間往復200kmを毎日毎日運転してくれた両親にはいまでも頭が上がりませんが、当時はそんな両親の苦労もまったく考慮せず助手席で爆睡していました。

まぁそこからが地獄の始まりなのですが、今まで比較的楽しくバドミントンをしていた環境からいきなり戸田ヨットスクールみたいなところに通うわけですから、辛いことしかありません。都会だと思っていた仙台もだいぶ山形寄りの仙台市青葉区で、家が多少多いだけで田舎度合いは山形と変わらないじゃないか!と思ったものです。

 

しかし単純な私は110kmのマラソンや膝に悪い大うさぎ飛びなどあらゆる過酷な練習も帰りのファンタオレンジと肉まんのために頑張ることができ、気がついたら本当に東北大会で優勝していました。

 

これと言って高い志を持っていたわけでも才能があったわけでもなく、むしろ運動神経は大変に悪い方でサッカーとかバスケのチーム決めをするとき、最後まで選ばれなくて残っているタイプでした。唯一持久走だけは異様に早かったのですが。

 

そして東北大会で優勝した時に寺本コーチから、お前高校はどこに行きたいんだ?と聞かれ、「寒河江(さがえ)高校に行きたいです!」と即答しました。理由は家から一番近い高校だからです。そしたら寺本コーチがちょっと難しそうな顔をして「そうか!それでは俺が推薦入学の話をつけてやるから任せろ!」と言ったので、すごいなぁさすが名指導者は山形のしがない公立高校にもコネクションがあるのか~受験勉強しなくていいのはラッキーだなぁ。と思い、無事めでたく埼玉栄(さかえ)高校への入学が決まりました。なんでやねん!!!

 

続く

カテゴリー: ブログ奥山